歴史
江戸時代は松平紀伊守などの武家地と「護持院ケ原」で、明治の初期に「錦町三丁目」となった。昭和24年5月、町会の前身である「錦三会」が発足し、昭和30年これを解散して新たに「錦町三丁目町会」を設立した。昭和37年には四之部が新たに独立し、「錦町三丁目第一町会」として分家している。
この地は「護持院ケ原三番明地」に相当する区域で、わが国の大学発祥の地である。明治10年(1877)錦町三丁目にあった東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士に移転していた東京医学校が合併し「東京大学」が創立された。創立当初は4学部を以て編成され、わが国初の総合専門学校となった。
また、町内3丁目28(現学士会館辺り)は、天保年間(1830~44)上野安中藩主板倉伊豫守の江戸藩邸があったところで、京都に同志社を創立した新島襄は、天保14年(1843)この藩邸内で生まれた。彼は若干22歳の時に国禁を犯して渡米、神学、理学を学んで明治7年帰国し翌年同志社英学校(同志社大学の前身)を創立している。
今昔(いまむかし)
わたしたち錦町三丁目町会は、神田ではもっとも皇居に近い町会です。昭和32年には町会だけで錦華小学校(現お茶の水小学校)の校庭を借りて運動会をしたり、何台ものバスを連ねて日帰り温泉旅行などのリクレーションを開くなど、最盛期には770世帯がこの地で寝起きしていました。
しかし、昭和40年頃からこの地域にも大手・丸の内の延長としてビル化の波が押し寄せ、急激に夜間人口が減少していきました。現在、区の住民基本台帳による錦町三丁目の世帯数は179世帯(平成15年12月1日現在)ですが、それを当町会の範囲に絞り、また昼夜寝起きしている人に絞ると20世帯程度になってしまいます。祭礼の時も、以前は町会単独でお神輿をだしていましたが、現在は近隣4町会との合同で運営されている状況です。
当町会の区域は、我が国における大学発祥の地(東京大学・明治10年)として有名ですが、そのほかにも「外國語学校」(現東京外国語大学)や「学習院」、「宮川保全共立女子職業学校(現共立女子大学)」(明治19年9月本郷区東竹町より神田区錦町に校舎を移転)など多くの優秀な学校がひしめいていて、教育文化盛んな町でした。また、現学士会館(28番地)はキリスト教主義の教育を創始した新島襄の生誕の地であると共に、日本ベースボール発祥の地としても知られています。
前述のように、昔からの町会員は減少の一途をたどっていますが、現在は新しくこの地に入ってこられた企業の方にもお誘いをし、法人会員になって頂くよう積極的に働きかけをしております。昔からの町会員と新たに町会に参加された企業の方々とのコミュニケーションを密にとり、新たな町会のあり方を模索している毎日です。とりわけ神田地域特有の文化である「神田祭」を核として、新旧町会員がお互いの理解を深め、この歴史と伝統ある錦町に愛着を深めて頂きたいと考えております。
昭和30年代の町会行事
いつでも子供優先の暖かい親心が見える